vol.18

2023.03.10

市村 孝広さん【地域おこし協力隊】

熊本で過ごした大学生時代。その思い出を胸に、再び熊本へ「帰る」決断をした市村さん。これが、自分の人生だ。そう胸を張れる自分でいたい。

初めて手にした居場所

「ここは、たくさんの”初めて“をくれた場所」だと、市村孝広さんは言う。カブトムシを採ったり、人の優しさを身近に感じたり、ボランティア活動で幼稚園の子どもたちと接したり。「田舎を感じた」のも初めてのこと。自分が自分でいられる居場所を手にした、東海大学阿蘇キャンパスでの4年間。

あの熊本地震のとき、市村さんは秋田県で社会人3年目を迎えていた。「大切な場所が大変なことに…」。その衝撃は、市村さんを容赦なく傷つけた。「そのときから、人生が音を立てて変わっていったように思います。それはほんの少しの変化だったかもしれないけれど」。

ただ、市村さんはそのとき「動けなかった」。そうしていつしか、「忘れてしまっていたのだと思う」。聞けば、心の傷を埋めるように、がむしゃらに仕事に打ち込んでいたことが窺える。社会人としても大切な時期であったことは間違いないのだけれど、市村さんの中に、その選択は「後悔」として残り続けているようだ。見ないふりをしていた心の瘡蓋(かさぶた)が傷も生々しいままに剥がれ落ちたのは、5年後のことだった。

自分らしくいられる選択

30歳を迎えた市村さんは、5年分の後悔を取り戻すように動き出す。「正直、仕事から逃げたかったのもある。ぎゅっとまとまっていたはずの心の箍(たが)が緩んで、バラバラになりそうな感覚」。市村さんを市村さんたらしめていた「箍」。それはきっと、南阿蘇村で過ごした時間だったのだ。

地域おこし協力隊としての主な活動場所は、震災伝承館轍(わだち)。旧長陽西部小学校の一部を震災の記憶を伝える場所として整備し、村の施設として土曜日のみ開館している。来場者へのガイドも、市村さんの仕事のひとつ。その熱い内容に、涙をこぼす人も。苦しさの先に、希望の光を掴めるような気持ちにしてくれる。まさに、市村さんにしかできないガイドだ。

市村さんは住民から震災の体験談を聞き取り、東海大学生グループと交流するなどして、熊本を離れていた時間を埋めてきた。そして学生時代を過ごした黒川区で生活し、区役にも参加しながら、地域の人たちと親しく言葉を交わす。

「自分はビビりだけど、本当は大声で言いたい。これが、おれの人生だ! って。それを体現できる自分でいたい」。安定した仕事を手放し、生活そのものをガラリと変えた。学生時代と違い、生活面でのプレッシャーもある。不安がないわけはないだろう。それでも思うのだ。市村さんのこの笑顔が、すべての答えなのだろうと。

【写真CAP】
1.轍にて。この1年で、すっかりガイド姿が板についてきた市村さん。真剣な話の中に、ホッと場が和むトークを挟んで、ともすれば沈みがちな空気を明るくする。

2.国道57号線沿いの数鹿流崩之碑(すがるくずれのひ)展望所から、崩落した旧阿蘇大橋の様子を見学。

3.耕作放棄地の活用を模索して、有志で「めぇめぇの会」を立ち上げた。東海大学でかつてお世話になった先生にアドバイスをもらいながら、羊の飼育を開始。退任後の多業のひとつに考えているそう。

インタビューしてみての感想

地域おこし協力隊ヒトコト録(2023年2月発行)より転載。
2023年6月退任。

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